サマータイムに不定時法

御存知、不定時法。太陽の位置に則す、相対値=日々異なる、エリア毎にも差異が。

日の出と相対的に、ざっくりとしたエリア分けは可能だろうが、まあ地域毎のバラバラな時刻に。

( 特に山国では、尾根を隔てて、その差異が顕著。山の夜は早いとされる所以 )

一刻を2時間と捉えても、つるべ落としな晩秋の昼の一刻は( 分割の都合上 )、盛夏よりも縮まる。

( 後述するが、いわゆるサマータイムとは完全に別の概念 )

たとえば明六ツ、日の出30分前ころが目安=空がやや白むころ=自然任せ=ママに不定時。

よく勘違いされるのは、日の出=明六ツではないのと、6時ころ=明六ツでもない。

厳密に、現在の時刻の概念から不定時法での時刻を特定は、あまり意味がないそうだ。

( 古い文献上の記述を現代的に特定では、当時の、その場所の固有性に鑑み、その上で、実際に体験するしかないだろう )

たとえば8月初頭の都内、5時少し前が日の出、では、その30分前、都内西部は…

summertime

この画像、まさに明六ツ。けっこう暗いようで、ライトなしでも行動可能な明るさ。

( これは森林地帯のそこそこ奥なんで闇と見えるが、ひらけた場所では相応に見通しが効く )

テント山行に例えると、早出な出立準備に取り掛かる時間帯だろうか。

ちなみに江戸期-戦前の山旅では( サイクリングも )、文献によると、この明六ツを目処に行動のようだ。

昔の旅人は朝が早いんです。ルートにもよるのでしょうが、明るい内に峠を越えなければリスクが増すので。

( そのリスクとは、道迷い、山賊、そして狼などの獣 )

ちなみに戦前の都内長距離サイクリストは、調べた限りでは、3時ころにはすでに走り始めてる。

不定時法に話を戻す。時刻そのものは共通の概念だが、自然のリズムに基づく、ある意味、感覚的な時。

ただ、感覚的と例えても古来の自然に密な暮らしでは、自然に学ぶことで、そこそこ正確に特定可能だったのでは?

たとえば一番鶏に二番鶏、真夜中の一番鶏はともかく、ほぼほぼ明六ツに二番鶏は鳴く。

( 実家は鶏を飼育してたのでよく覚えてる。ちなみに朝、卵の回収が幼少期のルーチン )

この時期では、いわゆる蝉時雨。まるでアラームをセットしたかのような正確さで毎明六ツに鳴き始める。

( それは森林地帯での話。近年、都心部では一番鶏かのように真夜中にも蝉は鳴いてる )

江戸期にも時計は存在、が、超高級品。市中はともかく、各村々にあるわけでなし。

香盤に鐘も知恵だが、では、それにしても校正は? やはり自然の事象に立脚するのだろう。

( たとえば日々、日の出を絶対値として明六ツを逆算などなど )

蝉時雨にふれた、連日明六ツの森林地帯を流していて、つくづく自然のサイクルは正確だと感じる。

もう無理・戻れないが( 近代合理化の悪しき影響か? )、江戸期のような不定時法ほど理に叶う生活スタイルは他にないだろう。

さて、サマータイム、ある期間限定な切替式。古来の時法かのように通年ではない。

身体は機器じゃない、そう都合良く切替るものでない、生活リズムがズタズタに=主に、それが廃止理由( これは戦前-戦中派によるレポが、実際にサマータイムを体験した世代が猛烈に否定してきた )。

元来( サマータイム成功な例は )、わが国よりも緯度が高いエリア( 陽光、自然の恩恵を最大限に活用な意図が )。

ところが、そのようなエリアにおいても不評、現在、廃止の方向に。

それがたとえばUSで採用な理由は( 過去の日本も )エネルギー問題にまつわるエクスキューズ( 陽光の恵みなんたらとは無関係 )。

そのエネルギーなんたらも、行動時間が延びたことで、却ってエネルギー消費な増大で公害問題に発展( これは90年代のFRで )。

この案件、忘れたころに再燃するが、統制派の御都合によるものだろう。その狙いは、消費活性化な目論見か?

消費活性化も結構なようで、その反面、生活リズムが狂うのは前述のように実証済、おまけに反エコでも。

そう、ドメスティックでは( 地勢的にも )、サマータイムなんてろくなもんじゃない。

補足。

ここで言う不定時法は「寛政暦」として。参照は「江戸近世暦(紀伊國屋書店)」。

追記。

サマータイム制を導入しない国々は、そもそも、その必要がないんだ。

興味があるなら、実施エリアを訪れてみるといい。よくわかる。

根本的にライフスタイルが異なるんで、それを安易にドメスティックに適応はいかがなものかと。

北欧と北米で体験したが( 仕事での渡航、そこそこな期間滞在 )、現地の21時ころが、ドメスティックの18時ころの感覚。

最初、好奇心もあって面白かった…が、慣れてくると、馴染むのでなく、逆に、かったるく( 一日が長い=疲れる )。

実際、前述のように、EU諸国では不評・失敗( 亜細亜圏でも、たとえば隣国大陸に半島でさえ廃止に追い込まれた愚法 )。

無理は承知で、もしもたとえば江戸期的な不定時法を採り入れるなら大賛成。

追記。

トランスレートを試みるから、ややこしいことに。明六ツは、何時でなく、明六ツは明六ツ=東の空が白み始めるころ。

話が逸れるが、時刻そのもが人類の都合。そもそも宇宙に時間なるものは実在しないそうだ。

それは「日経サイエンス」で知ったのだが、そりゃそうだ… なぜならば、この宇宙において不変なものは何一つとしてない。

するとたとえば自然ママな不定時法って、真理的( 仮定 )な時の捉え方ではないだろうか?