伊能忠敬の高尾山ルート( 中編 )

今回詰めた尾根筋、伊能忠敬尾根、伊能尾根とする( 注・仮。古くから踏まれていた尾根には、たいていはローカルな呼称がある )。

「伊能図」の高尾山ルートには謎がある。

( その「伊能図」原本は消失。そのかわりバリエーションが多数存在、なので「大図」の原図に近いものを参照するのがベスト )

伊能隊のルート候補は、大きくは二つのエリアにわかれる( と、考えてる )。まず、メジャーな駒木野は七曲方面、そしてローカルな荒井宿方面。

そして「伊能図」には目安ともなる地図合印( 地図記号 )の記載が。「大図」には高尾山の稜線上に「佛寺」記号が、その東側に薬王院から通じるルートが。

( 確認した範囲では、「大図」には3種類、いずれも「佛寺」記号の東側を通過。薬王院にも「佛寺」記号あり )

「中図」には記号なし。

( 確認した範囲では、「中図」には2種類、いずれも記号なしだが、高尾山には「佛寺」記号あり )

とりあえず稜線上に地図合印のある詳細な「大図」に注目。ルートは荒井宿方面から伸びている、そして二十一丁目の坂道付近で本参道に出合う。

そのエリアで「佛寺」記号に符号する寺社といえば、まず七盤嶺の金比羅社、そして浄土院の存在が。

( 駒木野宿ルートは金比羅社の東側に。荒井宿ルートは、今回詰めた伊能尾根は金比羅社の東側に、以前紹介した花見尾根は浄土院の東側もしくは金比羅社の東側いずれにも通じる )

たとえば登りで考えると、七曲方面から尾根上に上がると金比羅社の東側を通過、花見尾根方面から尾根上に上がると金比羅社の東側もしくは浄土院の東側を通過という仮説が成り立つ。

そこで、では、荒井宿側は花見尾根で取り付いたとして( 下るにしても )、麓には、ルート上には高尾天満宮が、しかし高尾天満宮の地図合印はない。

( 荒井宿でメジャーな社といえば若宮八幡だが、方角が異なるため除外する )

なにかがおかしい…?

たとえば金比羅社で尾根上に出るとして、薬王院に向かう途中で浄土院前を通過。それであれば二十一丁目の坂道付近に二つの「佛寺」記号の記載があってもいい。しかし記号は一つしかない。

浄土院で尾根上に出るのであれば記号は一つでいい。しかし「伊能図」には全ての寺社が記載されているわけではないだろう、ポイントとなる出合い側の寺社のみが描かれているのであれば、この点は解決。

(「測量日記」にも「坊中十八院」とあるように、高尾山は寺社の集合体。「大図」に、その寺社全てが描かれているわけではない、省略もされている )

しかし、であれば、やはり麓側の目印ともなる高尾天満宮を示すであろう地図合印がなぜにない? その点は、もしも伊能尾根( 仮 )を進むのであれば解決。

で、駒木野七曲に関しては、一旦、保留、無視( 話がややこしくなるんで、また改めて説明します )。

伊能尾根( 仮 )を考えるにあたり、そもそも「伊能図」の目的は沿岸部の地形測量に。その遠征の道中にて主要な街道も測量。山岳地帯の山相を記録するものではなく、その意味では高尾山での測量-参詣はおまけと仮定。

「伊能図」は実測図だ、たとえ慣例的に踏まれている明確な道が存在しても、無測の場合は地図上に記載されない。もちろん無闇に進むわけもなく、いずれかのルートを辿ったのであろう。

では「伊能図」に掲載されている荒井宿から伸びるルートは、たとえば郷土史からも、幕末には間道としても踏まれていたであろうと推測される花見尾根で測量が行われたと考えるのが妥当では?

と、最初は考えた。まあ、深い考えはなかったのだ。後、「伊能図」のバリエーションを知り、測量方法を学ぶにつれ、あれ? こりゃあなんか変だぞ!? となってきた。

そこからだ、そもそも「伊能図」ってなに? 伊能忠敬測量隊はどっから高尾山に取り付いた? そんな、伊能隊の軌跡を解明したくなってきた。

先に説明した最初の疑問、花見尾根を選択したのであれば、高尾天満宮は目立つというか、それしかない。そのマーキングがなぜにない? そもそも花見尾根は測量に適した地形なのか?

要は、測量が行われたのであれば、そこを測る明確な理由があったはずだ。前提、山相はローカルが把握、地形に関する情報はある、ガイドも付く。

( 伊能忠敬測量隊は官であり、事前に幕府直々の通達が、そして測量の現場ではローカルが全面的にバックUP。当然、常に先達がサポート、地元の道案内人が同行 )

時は1811年( 文化8年 )5月5日、新暦では6月末、新緑は育ちというか、もう初夏、ヤブはワサワサ。が、すでに第7次測量であり、国家事業としての重要性も認識されていた。

事前通達により測量地の目安はつく、ローカルによりヤブは払われ、杭も打たれ、道もそれなりに再整備されていたであろう。おそらく、橋を仮設するくらいの勢いはあったと思う。

( 留意は、幕末にかけて乱伐に近い伐採が=建築資材の枯渇、慢性的な。それで当時は坊主山に近い=見通しはきく。ただし、本坊側の森林は温存されていたはずで、そこは明治期の写真でも明かだと思う )

測量においての根拠は基点だ、地図は基点ありきだ。「伊能図」を観察すると、甲州道中は荒井宿から、突如南の高尾山に進路が伸びているように感じる。

なぜにそのルート? なにか理由があるはずだ、その際どこかに基点を求めたはずだ、そこ道があるからという単純な理由ではないだろう。

( この裏高尾方面の各尾根には、杣道も含めると、幾筋もの道が走り、いずれもたいていは薬王院に通じる尾根筋に出合う。主要ルートの測量であれば、出合に道標のある蛇滝道もしくは七曲を進むだろう。しかし蛇滝道はスルー、七曲とも思えない )

その理由が解明できれば、自ずと進んだ尾根筋も明確になるであろうという仮説を立てた。

つまり地形図を基にルートの推測という細部にこだわるのではなく、それよりも甲州道中上の目印( 基点ともなる )を特定しようと考えた。

否、白状する、最初、七曲尾根-花見尾根区間の尾根筋に片っ端からアタック、しかしどうにも掴めない。それとこの区画には侵入禁止エリアも、全ての尾根をというわけにもいかなかった。

( 今回詰めた尾根も、実は最初撤退してる。その時は沢筋を進み、取り付き付近の崖を見て、この先に道がつづいているとは思えなかったのだ )

んで、振り出しに戻る。古地図と郷土史とを洗いなおす、さらに地元の方からもお話を聞き情報収集と、その整理。

それで出て来たのが地図に描かれている古い道筋と、甲州道中は駒木野-荒井の一里塚跡に現存する古い水準点だ。

milestone

直覚した( 仮定 )、甲州道中を東に進んだ伊能忠敬測量隊は荒井宿に入り、一里塚( 水準点 )を目印とし、そしてコンパスで方角を確認したのではないか?

( 古地図には、まさにその位置に橋も描かれていた。現在その橋は消滅。逆に、現在、高尾天満宮側にかかる橋は、古い地図には存在しない )

伊能尾根( 仮 )は、その尾根上の肩は( 御料局の宮標石が現存 )、一里塚のほぼ真南に位置する。

伊能隊の高尾山下山ルートは、荒井宿の一里塚が甲州道中上の目印ではないか?

後編につづくが、あくまでも史観です。

補足。荒井宿の一里塚は、散田村新地の一里塚につづくものです( 現在の八王子市横山事務所付近。跡地の番地まで突き止めたが、すでに跡形もないのとエリアが異なるので割愛 )。この一里塚に関しても、もう少し説明が必要、別記する。

1600年代初頭から大久保長安指揮により甲州道中の整備が進む。それにともない一里塚設置。

金比羅社は、1827年「高尾山石老山記」に、鳥居と社らしき堂が描かれている。

浄土院は、たとえば「武蔵名勝図会」など1800年代の文献で紹介されている。

高尾天満宮は、境内に「この地に数百年鎮座」と案内が。幕末には存在したのであろう。

( 荒井宿の鎮守は若宮八幡。その若宮八幡には、境内には、古いものでは1700年代半ばの石仏が確認できるそうだ )

いずれも伊能忠敬が訪れた1811年には存在したと考えてるのだが、いかがだろうか?

それと「測量日記」にも「浄土院あり」と記載されている。そこなんです、花見尾根ルート説を切り捨てられない理由は。

花見尾根ルートでは浄土院の脇を通過と先にも説明した。たとえば日記に「金比羅社あり」と記載があればなぁ… 伊能尾根( 仮 )ルート説のエビデンスがさらに固まるのだが。

高尾天満宮と金比羅社は無記載、なのに、なぜに浄土院は気に留めた?

その1: 伊能忠敬の高尾山ルート( 前編 )
その3: 伊能忠敬の高尾山ルート( 後編 )
その4: 伊能忠敬の高尾山ルート( 地図編 )
その5: 大久保長安と「伊能図」の誤差
その6: 伊能図の謎( 中間尾根編 )
その7: デジタル伊能図の高尾山
その8: 古道のパスハンター
その9: 古道の甲州道中( 実測編 )
その10: 完全版( 伊能図の高尾山 )前編
その11: 完全版( 伊能図の高尾山 )後編
その12: 伊能図の謎を歩く( 最終章 )
その13: 伊能図外伝( 文化8年5月5日/ 1811年6月25日 )

関連のある記事: 金比羅台の謎( 高尾山 )