伊能忠敬の高尾山ルート( 地図編 )

1. 伊能図の「佛寺」地図合印について。

伊能忠敬測量隊の高尾山ルートで「佛寺」記号に符号する寺社は、七盤嶺の金比羅社、そして本参道の浄土院が。

また、もしもそこを通過したなら、地図記号が印されていない理由が不明なのは荒井宿に望む高尾天満宮。

この金比羅社、浄土院、そして高尾天満宮という寺社は、いずれも伊能隊が通過した1800年代には存在と仮定( 実際、あったと思う )。

では、この三社の違いは? 社の規模は、大きい順に、浄土院 > 金比羅社 > 高尾天満宮となるだろう。

( と、まあ並べてみたが、特筆するような差はなかったんじゃないかと? )

浄土院の御本尊は薬師、堂の寸法も記録されているが、ただ、所在地の地形からも、おそらく草庵のような小規模の建物では?

( 二十一丁目の坂道、現在の城見台付近、本参道の脇の崖っぷちであり、大きな建物だったとは思えない )

金比羅社は覆屋のある小社で御神体は白幣。高尾天満宮は不明な点が多いが、百姓持の小社かなぁ?

( たとえば戦前の地図には、若宮八幡には鳥居マークあり。でも高尾天満宮はノーマーク、謎 )

それで、その規模からも、薬王院の塔頭の一つとなる浄土院のみが地図に記載されたのか?

それにしても当時、名勝とされた( いわゆる高尾十勝に含まれる )七盤嶺の金比羅社を省略するだろうか?

高尾天満宮が百姓持の小社であれば、まあ省略されるのだろうが、それにしても麓にある唯一の目印を省くか?

「伊能図」からも、伊能隊が二十一丁目の本参道を進んだのはたしかなのだが… やはり、わからん! モヤモヤする…Hmm

( それと天満社そのものも厄介、特に古い小社の場合、現代的な意味での天満社とは位置付けが異なる。そもそも荒御霊ですからね。つまり、あえて祀られた由来があるはずで、そこを解かない限りこの高尾天満宮も謎のままでしょう )

2. 宮標石「界」と境界尾根について。

まず、高尾山の御料林の範囲は、簡単に説明すると、坊ヶ谷戸全域。で、ここでは甲州道中に望む裏高尾側のみを説明。

その坊ヶ谷戸の境界、特に裏高尾側は複雑、まるでジグソーパズルのように入り組んでる。さらに御料林の一部は坊ヶ谷戸からはみ出してるケースも。

大字である上長房の小字、一里塚付近を境とする駒木野と荒井の高尾山側の境界は伊能尾根につづく( 西側は荒井、東側は御料林 )。

その御料林エリアは基本侵入禁止だが、先にも説明したように、裏高尾側の各枝尾根にはローカルな山道が通じている。

それは主に参詣目的および間道として踏まれているもの( ローカル限定 )、そしてメンテナンスのために開かれたもの( 一部マキ山としての利用 )。

坊ヶ谷戸は天領だが、実際の管理は上長房の各字に委託されていた。それで各集落から各尾根に取り付く杣道のような仕事道が幾重にも存在する。

伊能尾根( 仮 )ルートも、そもそもはそんなメンテナンス用の仕事道として踏まれてきたのではないだろうか?

そして伊能尾根は御料林との境界尾根でもあるので、その尾根道は、近代以降も引きつづき巡視経路としても踏まれていたのでは?

花見尾根は、花見ぞねの”ゾネ”は境界を表すが、境界尾根ではない。花見尾根全体が御料林に、つまり花見尾根は実は坊ヶ谷戸に含まれる。

( 高尾天満宮に話を戻すと、高尾天満宮も実は坊ヶ谷戸に含まれる。すると百姓持ではない? もちろん新編風土記稿もチェックした、しかし天満社の記録はあれどいずれも方角が合致しない。しらべ方がわるいのか? やはり謎 )

ino-tadataka

画像は、伊能尾根( 仮 )。下のほうに見切れる宮標石を界に、左側は荒井( 西 )、右側は御料林( 東 )、そして手前側も御料林( 南 )。

なぜにこの尾根で伊能隊による測量が行われたのかを考えると( 仮定 )、目印となる一里塚はともかく、官と民との界を測量という幕府側の要請では?

この仮説も今一つで、大字界の境界尾根では、それこそ七曲尾根が天領との境界尾根なのだ( 西は御料林、東は落合 )。

ただ、メジャールートな七曲はすでに測量されており( 仮定 )、では今度はマイナーな伊能尾根でという流れはあり得るかもしれないが…謎。

( 総体としての、正確な地図はなくとも、たとえば各地で検地は盛んに行われていた。だからこの境界尾根測量説も今一つ、なんとも…)

また、逆も然り。境界尾根でないからこそ( 論所のようなケースを避け )花見尾根で測量ということもあり得るなぁ…Hmm

3. 現代の地形図と「伊能図」との比較について。

初心に戻る、単純に「伊能図」と現代の地形図とを重ねてみる。

topographic-map

まず「大図90号-東京」をトレース。赤線はトレース線( 厳密なものではない、誤差があり得る点に留意 )。

そして甲州道中を合わせる。ポイントは猪ノ鼻( ほおなで )、荒井-駒木野の一里塚、そして両界橋( 古淵 )。この三つの地点は幕末とほぼ同位置に。

topographic-map2

( ベースは「高尾山登山詳細図/ 守屋二郎図」。地理院地図ではなく、あえて「守屋二郎図」に合わせたのは高尾天満宮の表記があるため )

多少のズレはあるが、「伊能図」の正確さがわかるだろうか。小仏川は成り行きで描かれているが、甲州道中は見事に一致。素晴らしいの一言。

( ちょっとびっくり、これほど「伊能図」が正確だとは想像もしていなかった。もっと誤差があるだろうと予想していた )

これは甲州道中に変わりがないことの証でもあるが… そこも考えどころ。およそ200年が経過、変わってないわけがない。精度の検証は測量当時の地形と照合しなければ、なのだが、そんなデータは存在しない。この比較から「伊能図」が正確と仮定して進める。

だがしかし! 高尾山側はガタガタ、無茶苦茶。そしてまた、花見尾根ルート側にも注目。蛇滝林道手前まではほぼ一致。でもその先はやはり無茶苦茶( 古滝の先まで伸びている )。

では、今度は高尾山側を合わせる。ポイントは二十一丁目の坂道、幕末とほぼ同じ位置。薬王院側は成り行き( 明治期の大規模な崩落と、大正-昭和期の整備による変化が大きい )。

topographic-map3

すると! これがまたほぼ一致するのだ。Hmm… なんだこりゃあ!?

つまり「伊能図」の道筋は、甲州道中はほぼ正確、高尾山もほぼ正確、にもかかわらず、それをつなぐ間道の尾根( 荒井宿-本参道までの区間 )がメタメタなのだ。

( 直線距離でおよそ100m-200mもの誤差が。平地と違い、山での100mは大きい、一尾根違ってくる )

なぜに間道区間の誤差のみが大きいのか? 実はそこが、誤差が大きいことが、却って伊能尾根( 仮 )の根拠の一つとなり得るか?

先に、花見尾根と七曲尾根よりも伊能尾根( 仮 )は急登であり気安く登ると降りれなくなる可能性が、ここは危ないと説明した。

ほぼストレートな尾根道だが、それほどに崖に近い斜面がつづき、それが測量を困難にした結果、大幅な誤差に? と、一時は考えたが、どうもしっくりこない…ダメだこりゃ、リアリティなし!

それは花見尾根ルート説にも通じる。実際、甲州道中-蛇滝林道付近は一致、ちょうどそのあたりから上は傾斜が急になるため測量が困難になるのもわかる。が、この点は林道工事により原型を留めていないため、当時の様相がなんとも。ただ、花見尾根では、それにしても誤差が大きすぎる。

( 記録からも、事前の指示として、危険を伴う無謀な測量を伊能忠敬は禁じてる。そのような場所では、大まかに測量、そのかわり詳細なメモとスケッチで補う慣例があったようだ。でもそれは、たとえば入り組んだ海岸線の崖っぷちなどの極例では? 里山の間道にそこまでのリスクはないだろう )

再考。大幅な誤差があるようで、他のエリアの正確さからも、実は距離感は正確なのではないだろうか。

だがまてよ、それでもやはり、なにかがおかしい。そう、甲州道中の位置がほぼ正確であるなら( 仮定 )、高尾山の位置が根本的に変なのだ。

次回につづく、「伊能図」における高尾山の謎を説明する。

その1: 伊能忠敬の高尾山ルート( 前編 )
その2: 伊能忠敬の高尾山ルート( 中編 )
その3: 伊能忠敬の高尾山ルート( 後編 )
その5: 大久保長安と「伊能図」の誤差
その6: 伊能図の謎( 中間尾根編 )
その7: デジタル伊能図の高尾山
その8: 古道のパスハンター
その9: 古道の甲州道中( 実測編 )
その10: 完全版( 伊能図の高尾山 )前編
その11: 完全版( 伊能図の高尾山 )後編
その12: 伊能図の謎を歩く( 最終章 )
その13: 伊能図外伝( 文化8年5月5日/ 1811年6月25日 )

関連のある記事: 高尾山の丁石( 一丁目から三十六丁目まで )