伊能忠敬の高尾山ルート( 後編 )

伊能忠敬測量隊により測量が行われた伊能尾根( 仮定 )をさらに詰める。

御料局の宮標石と古い水準点は後世のもの、直接は伊能忠敬に関係ないが、日本地図製作の始祖の一人でもある伊能忠敬の軌跡を追い、そこで測量史跡に出合うのも不思議な縁ではないか。

この見極めが正しく、紹介した伊能尾根( 仮 )が正解なら、尾根上の肩に現存する宮標石( 甲州道中に現存する古い水準点からほぼ真南の位置 )も伊能隊の測量と無関係ではないような気が?

実は、この伊能尾根( 仮 )、そして花見尾根も、以前にも登ってる、初めてではない。

伊能隊の高尾山ルートを特定するにあたり、古い地図と現在の地形図を見比べ、するとなんかモヤモヤ… その都度登り比べているのだ。

( と言っても年に一度あるかないか。また両ルートとも登りのみ、下るのは避けてる )

肝心の結論は、わからん。ただ、伊能尾根( 仮 )と花見尾根、いずれかでは? そして伊能尾根( 仮 )の可能性が高いように感じてならない。

甲州道中側から高尾山に取り付くには、古くは、東から、まず七曲尾根、伊能尾根( 仮 )、花見尾根、そして蛇滝道( 行ノ沢 )の4ルートが。

七曲は落合口留番所再開以前からの幕府公認ルート。伊能尾根( 仮 )はマイナーなようで古い地図にも記載されている( 開設時期は不明 )。

花見尾根はローカルルートとして慣例的に踏まれていたという郷土史の記載が。そして4番目の蛇滝道… ここも謎に包まれたルートで不明な点が多い。

たとえば現在、行ノ沢に沿う蛇滝道は、古道とは微妙に道筋が異なるようだ、正確には不明( なんとなく検討はつくのだけれど…Hmm )。

そして猪ノ鼻( ほおなで )に1803年の道標は置かれてはいるが、蛇滝道が公的になる、裏参道に昇格するのは1860年以降ではないか。

( 古くから、たとえば修験者に踏まれていたとも思えるが、そもそも高尾に修験はないという史観も。伊能忠敬測量隊が通過した1811年の当時状況に関しては別記します )

高尾山測量の前日、5月4日、伊能忠敬一行は小仏宿に分散して宿泊( 大所帯でもあるが、階級社会なんで宿のランクが。ちなみに所在地もほぼ判明 )。

そこでは明日の測量に関するミーティングが開かれ、村役が集い、村側から概念図のようなものが提出されたそうだ( つまり伊能隊は事前に山道の地図を見ていたはず )。

当然、山相から測量適地など、最新の現地情報を仕入れ、ルートファインディングが行われる。そして明日の測量ルートが確定。

測量エリアから、少なくとも、おそらく、摺差、荒井、駒木野、そして小名路と、上長房各字の村役が小仏宿に一堂に会したのでは?

( 伊能忠敬の好む食事メニューリストまでが密かに作成されていたという記録も残されている。幕府直々の測量隊を迎えるのは沿道の村落において一大事でもあったようだ )

そこで考えどころは、やはり地図製作では基点をどこに取るか。たとえば蛇滝道には道標が設置されているが、あれは私製、講の尽力による。

( ここで間道の基点にこだわるのは、また後で説明しますが、この間道を進むというルートファインディングそのものが変。実は間道を測る理由からして不明なんです )

花見尾根には高尾天満宮があるが、街道からは外れる。また、天満宮社を確認したのであれば、その地図合印がなぜにない?

伊能尾根( 仮 )の真北には、一里塚という公の印が。そしてこの4ルートの中で最も見通しが効く( それだけ急登ということでもある )。

そして七曲は、逆に、なんでここで測量が行われなかったのかが不思議。関所を印に、道幅も十分、尾根上肩からの見通しも良好。

( ただ、不動の基点としては一里塚。戦国期-江戸中期と、地勢により関所は閉鎖-移設-再開を繰り返してきた、固定した存在ではない。寺社と石碑もまた然り )

否、そこに道があるから測量した! でいいんだけどさ、複数のルートが存在、その中から荒井宿ルートをチョイスした理由がね、そこがひっかかる。

( これ、わりとシンプルな話かも? 一里塚があり、道もある、じゃ、そこでいいじゃん! みたいな? )

1600年代からの街道整備により、荒井-駒木野に一里塚があることは伊能忠敬も知っていたはずだ。

おそらくローカルの情報で、その真南には薬王院まで通じる尾根道があるということを知ったのではないか?

そしてあの一里塚で伊能隊は立ち止まりコンパスを南に合わせ位置関係を確認、そこを目印とした、というのが私の史観だが、それにはもう一つの視点が。

甲州道中に面した尾根筋で、中でも伊能尾根( 仮 )は最も見通しの効く急登と説明した。それだけではない、尾根上肩の位置が最も甲州道中に接しているのだ。

伊能尾根( 仮 )は、ヤブが払われている仮定では、尾根上肩で、北西-北東の見通しが効く。蛇滝道は甲州道中から離れる、そもそも谷間、展望なし。

花見尾根は、意外にも、並走する左右の尾根が迫り視界が狭まる。林道上まで登ると視界が広がるが、それでは甲州道中から離れてしまう。

七曲は参道としても整備されていたが、甲州道中から離れてしまうのと北西の見通しがほぼない。

( 地形図では、単純に320北尾根が目印には最適なようで、あそこはただの崖。測量可能な道があったとは思えない )

伊能忠敬の測量方法を考えてみると、当時、日本の測量技術は世界的には遅れてた( すでに三角測量が主流の欧州に100年の遅れを取っていたとされている )。

にもかかわらず「伊能図」の完成度が世界的にも高レベルなのは、まめな誤差の修正に( 確認作業 )。それには天体観測による経緯度の補正、また交会法による誤差修正が。

交会法での一手法として、「伊能図」の研究で著名な渡辺一郎氏は「近傍の共通目標の位置がキーポイント」とその著書で述べられている。

もしも裏高尾側で交会法を行うとして、道中から望める共通目標で、なおかつ道中との間隔が狭いほどいい。距離が開きすぎると検証不能になるそうだ。

つまり伊能尾根( 仮 )で測量を行うのみではなく、誤差修正も容易いルートでは? というのは話が出来過ぎ。そんなことは理由にならないだろう。

この推論には穴が。裏高尾エリアで交会法が行われたという仮定に基づくものだが、交会法というものを理解してない、実際の経験もなく、まあ、なんとも。

もちろん「伊能図」の解説書などで交会法について一通り学んだつもりだが… わからん! わからん! わからん! 現場経験がないんで、さっぱり不明! リアリティなし!

( しかもそれと間道を進む理由とは無関係。それはわかってるんだけど、この尾根筋なりの特徴を探ると、そんな理由しか思い浮かばないんだ。苦し紛れの与太話というか、多面的な考察ということでスルーして下さい )

そして、さらにもう一つの可能性が。それは伊能尾根( 仮 )は境界尾根であり、御料林と民有林の境界での測量が行われたという推理。

先にこのエリアには5個の宮標石「界」が現存と説明した。その宮標石を辿ると、この尾根道から金比羅社を経て薬王院に向かうのだ。

それこそまさに伊能ルートで( 仮定 )、この境界測量説のほうがリアリティがある。この話は次回につづく、持ち越す。

ところで参照した「伊能図」は、先に復刻出版されたもの、国会図書館のアーカイブにあるもの、国土地理院のアーカイブにあるもの、そして伊能忠敬史料館のアーカイブにあるもの。

その中に「中図」をトレースした「陸軍参謀局版」の「伊能図」が、これがまた謎。

「陸軍参謀局版」では小仏川と甲州道中の位置関係からも( 川と街道との間隔に注目すると )七曲ルートに見えるのだ。

「中図」は原図に倣うのだろうが、それが「陸軍参謀局版」では七曲ルート側に修正されているかのようにも見える。

( もしも「大図」の高尾山ルートが「陸軍参謀局版」と同様に描かれていたら、測量が行われたのは七曲尾根であると断定しただろう )

そして「伊能図」にある小仏川の流れも、ある程度の目安にはなるのでは? これは甲州道中との大まかな間隔も測量されたのだろうか? 三角関数的な数表により可能なそうだ。

「伊能図」のトレースには針穴式の技法が用いられた。「伊能図」で正確なのは、当てになるのは、針穴による目標点と測線のみ。

( 針穴式の製図、トレース技法は、たとえばオールドスパイスなタイプフェイスではポピュラー。国内でも80年代中期ころまでは好んで行うデザイナーがいた )

目標点と測線は正確にトレースされるが、分担作業であり、あとは描き手の成り行きで描かれるのだろう。しかしそれにも現場でのメモとスケッチが参照される。

( 現在、所在不明とされる、この大量に存在したとされるメモとスケッチが出て来ると多くの謎が解明されるのだろう )

ただこの「陸軍参謀局版」の件も、さらに話が長くなるんで、このへんではしょる。

荒井-駒木野の一里塚跡では水準点の画像をUPした。他に、竹薮説が。浅川中のフィールドワークでは竹薮の側。高尾周辺の石仏研究家としても著名な縣敏夫氏の研究によると水準点の側。

竹薮と水準点とは、ほぼ対面。一里塚はそのように対であることも( 手前、八王子宿側、散田村新地の一里塚は対 )。また片塚であっても新旧の可能性もあるかもしれない。なので、どちらの史観も正しいのでは?

竹薮側は跡形もない( すでに住宅に、それで曖昧に紹介 )、水準点は現存するがわかりづらい( 厳密には私有地内。地主の方に、わざわざ案内していただいた、多感! )。

それと「伊能図」にある小仏川の流れは、目安には… と説明したが、小仏川は過去に何度も氾濫している( 大災害レベルの )。

そのため、たとえば現在の地形図に照らし合わす場合、小仏川の流れ( 位置が )そのものが変化しているかもしれない点にも留意。

甲州道中の位置は当時ママと思われるが、それでもたとえば古い写真との比較では、微妙な変化が。それは近代以降の区画整理によるものか?

最後に、繰り返す、結論は、わからない。古い水準点、宮標石の存在、そして古い地図にあるそれをつなぐ橋と、それでもうバイアス。根本的になんか見落としている気も?

「伊能図」に描かれている高尾山ルートに興味がある方は、花見尾根と伊能尾根( 仮 )ともに歩いてみることを… おすすめはできないなぁ。

幾度も踏んだ私が言うのも変だが、両ルートともあぶない。

ino-tadataka

伊能尾根( 仮 )の宮標石で記念撮影( 日の出直後。やや風があり寒し、それで少しこわばってる )。この真後ろがほぼ真北、そこに一里塚跡が。

補足。どうしてもあと一点だけ紹介しておきたい謎があるんで、もう一回つづく、別記する。

事前通達に関して、早いケースでは、1年前に示達が。つまり村側は測量1年前から伊能隊を迎える準備に入ったそうだ。そして一月前に具体的な予定表も届けられていた。

さらにこれは一ケースとして、鍼灸師にマッサージ、そしてスタイリストまでが待機と、まるでエステサロンさながらの受け入れ態勢を整えていたという記録まである。

先に宿のランクの話をしたが、風呂場にもランクが。つまり伊能隊のために( 一泊のために )風呂が新築されたケースもあるそうだ。

であれば、ヤブを払い、浅瀬に仮設の橋をかけるくらいは当然のごとく行われたであろう。

その1: 伊能忠敬の高尾山ルート( 前編 )
その2: 伊能忠敬の高尾山ルート( 中編 )
その4: 伊能忠敬の高尾山ルート( 地図編 )
その5: 大久保長安と「伊能図」の誤差
その6: 伊能図の謎( 中間尾根編 )
その7: デジタル伊能図の高尾山
その8: 古道のパスハンター
その9: 古道の甲州道中( 実測編 )
その10: 完全版( 伊能図の高尾山 )前編
その11: 完全版( 伊能図の高尾山 )後編
その12: 伊能図の謎を歩く( 最終章 )
その13: 伊能図外伝( 文化8年5月5日/ 1811年6月25日 )