大久保長安と「伊能図」の誤差

伊能尾根( 仮 )の件は一旦保留、「伊能図」における高尾山の位置を考える。

参照は「大図90号-東京」。それを基にトレース、「守屋二郎図」に合わせるという前回のプロセスをふまえる。

「伊能図」での、このエリアにおける甲州道中と高尾山の山道個々が正確な点は説明した、その相対的な配置がおかしいのだ。

それはわかるが…が、プライベーターにはこの程度の検証が精一杯。そんなゆきづまりを打破する意味でも多面的に見てみよう。

まあ余興のようなものですが、なにかしら新たな発見があるかもしれない。

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まず、富士山山頂-追分まで水糸を張る。ベースは地理院白地図。

( 現在の国道20号線、追分町交差点-長房団地入口交差点までの区間の延長線を富士山山頂まで伸ばす )

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富士山山頂。

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追分町交差点。

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すると薬王院の真ん真ん中を通過。

このように富士山山頂と追分とを結ぶライン上に薬王院が位置しないとおかしい。位置しない場合、そのズレから誤差を求めることが可能に( 仮 )。

なぜ? それは1600年代に甲州道中を設計した大久保長安が、そのように定めたのだ。ここで富士講の勧進者でもある大久保長安の仕掛けが効いてくる。

( 観光地化による変化が激しい高尾山だが、奇跡的にも飯縄大権現社は1600年代ママの位置 )

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追分町交差点、真正面に見切れるのが薬王院。見切れないが、その遥か先には富士山山頂が位置。この追分-薬王院-富士山山頂ラインが、高尾山が富士山のメタファーである証でも。

やるなぁ大久保長安! ということで簡単に年表をさらうと、1600年( 慶長5年 )、関ヶ原で大勝した徳川氏は、後、甲州道中開設を布令。その責任者が大久保長安。

1604年( 慶長9年 )、高井戸宿が設けられる。このころに甲州道中はほぼ完成したそうだ。そして1636年( 寛永13年 )、甲府柳町が宿駅に。この寛永期に八王子宿が成立したとされている。

八王子宿成立からおよそ200年後、1811年( 文化8年 )、伊能忠敬率いる測量隊が高尾-八王子エリアを測量。

地図製作者である伊能忠敬は、この大久保長安の測量( 町割 )により仕掛けられた富士山信仰のメタファーを意識していたか? は、後述する。

では、その1600年代に大久保長安が定めたラインに、1800年代に伊能忠敬が測量した高尾山-追分ラインを、さらに200年後の現代の地図とを合わせる。いわば400年の時を重ねてみる。

( ちょっと強引に、追分と富士山山頂の位置が正しいという仮定で進める )

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まずは前回同様、高尾山側を合わせる。

( 山道に重なる線は大図のトレース、薬王院付近-二十一丁目の坂道という幕末ママの目印に合わせる。赤系の斜線は甲州道中の追分から伸ばした大久保長安ライン。大久保長安ラインは固定。黒の縦線は磁北線。もちろん幕末と偏差は異なる )

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するとこのように、「伊能図」の、高尾山の山道と甲州道中の追分町交差点が一致。つまりこの比較では、「伊能図」の高尾山( 薬王院-金比羅台区間 )は相対的にもほぼ正しい。

では、甲州道中側を合わせる。指し示しているのは、高尾山側を合わせた場合の高尾山山頂。地図上の高尾山山頂とのズレがわかるだろうか?

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( 甲州道中は、猪ノ鼻-一里塚-両界橋など幕末ママの目印に合わせた。高尾山山頂の位置は大久保長安ラインから相対的に求めている )

この場合、高尾山山頂は南南西におよそ160mの誤差が生じる( 具体的には5号路のあたりまでズレる )。

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この時、追分町交差点側は、このように1-2ブロックものズレが生じる。

すると、この比較方法では、すなわち裏高尾エリアの甲州道中がズレてる、高尾山側に合わせた場合よりも誤差が大きい。

甲州道中に極端なくるいがあるのではないだろう、追分側からの比較では、徐々にズレていくのがよくわかる。

否、小仏宿スタートなので、最終的に追分で帳尻を合わせた、補正されたのだろうか?

ついでに、せっかくなんで「伊能図」を追分町交差点側から甲州道中に合わせてみると…

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ポイントは追分町交差点と旧国道20号線( 甲州道中の名残 )。

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すると、多少ズレてるが、追分町交差点から両界橋付近にかけては一致。

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やがて、西に進むにつれ甲州道中のフレは大きくなり、もちろん高尾山側もメタメタにズレてしまう。

この比較、追分町交差点側から捉えると、甲州道中の誤差は少ないようで、しかし大久保長安ラインから薬王院は大きくズレる。本参道側を合致させると、大久保長安ライン上に薬王院が、でも今度は甲州道中が大きくズレて…Hmm

しかし先に説明したように甲州道中の距離感はほぼ正しい。そこから導かれる答えは… 実際の作図作業における誤り? いったいなにがあったんだろう?

ちなみに伊能忠敬は、いわば測量の人、フィールドワークが得意だったのですね。それにより得たデータを地図に置き換える作業は、実は不得意だったという史観が。そんな、得手不得手が見事に現れているのが、この高尾山誤差問題では?

幕末からさほど変化がないと思われる甲州道中の約1.7km区間、そして本参道の約1.9km区間。ともに東西に走る道で( 完全な並走ではないが )、その間隔およそ500m。

約1.7kmと約1.9kmという距離はほぼ正しく、地形もほぼ合致。現場は急登な地形だが、傾斜測線による勾配の求め方も正確と、導線法による距離の計測に成功している。

とにかく、ある区間における個々の道の測量はおどろくほど正しい。が、このケースでは500mの間隔を置いて並走する二本の道、その相対的な配置は大きくズレている。

なんでだ!? わからん! やはり測量-作図の実体験がないため、その誤りを具体的に指摘することができない。

( おそらく測量に詳しい方が見ると、このエリアでの誤差は「伊能図」の中でも特にわかりやすいケーススタディーの一つとなり得るのではないでしょうか )

なんっうか、各々が持ち寄ったデータ個々の値は正確、でも、それを組み合わせると…Hmm

それでもこの比較では薬王院の位置はズバリですよ( 飯縄大権現社にストライク )、しかも複雑な坂道の連なる山道もほぼ正確なんですから。

( この、距離感は正確なのに相対的な配置がおかしいという点に気づいたのが、花見尾根説を疑うようになったキッカケでも。山道の位置が正確で、まさか道中がズレてるとは意外。素人考えでは、これ、逆ならわかるんだけど )

だが、「伊能図」単体で見ると… 実は、追分-薬王院ラインにもズレが。そこがさらに不思議、まるで偶然にも薬王院の位置は合っちゃった!? みたいな?

つまり「伊能図」の追分延長ラインは薬王院を外れているが、にもかかわらず総体としての薬王院の位置はほぼ正しい。この件はさらに精度を詰めて検証する以外には証明する術がない。

( 繰り返すが、一つの考え方。この説の弱点は、そもそもの目安、ポイントを置いた位置そのものがズレてると、総体としてメタメタになるんで。実際、「伊能図」上の富士山からして位置ズレてるし…awww )

大久保長安の富士山信仰ラインに話を戻す。伊能忠敬はこの隠された延長ライン上に、なぜに薬王院を合わせてない? もちろん実測にこだわる伊能隊、たとえ意識にあったとしても自らの目で確かめる必要が。

そこで「測量日記」を参照すると、伊能隊が八王子宿での測量を行った1811年5月5日-6日は、5日は曇り、6日は大雨なんです。それで視界不良により遠山仮目的の法( 誤差修正 )が使えなかったのだろうと、このラインの検証は不可能だったのでしょうか?

歴史にifはないけれど、もしも当日晴天で追分から薬王院が望めたのであれば、このエリアの「伊能図」はさらに精度の高いものとなっていたのではないでしょうか。

そんで、さらなる疑問が湧くのです、つづきますというかまたまた話を戻す。

最初に説明したように「伊能図」の山道の誤差そのものは問題にしてない、そのような点に関してはすでに専門書で語られているし、そこまでの知識がない私には無理。

そもそもなぜにその尾根筋を進んだのか? その理由をフィールドワークから解こうという趣旨なので。

文献による伊能忠敬の分析は山ほどある( 当時の資産状況までもが明らかにされている )、しかし郷土史を基にフィールドワークから伊能隊の高尾山ルートを推察する試みは…

どうだろう? 少なくとも私はまだ見たことがない。では郷土史を基に仮説を立て、そのルートを詰めてみようということ。

補足。伊能忠敬が凄いのは、作図の理由( キッカケ )はさておき、総体としての沿海図を、わりと短期間で、それなりに精度を保ち完成させた点ではないでしょうか。

( 1800年に第1次測量、そして1816年の第10次測量と、16年をついやしているが、記録からもそれなりに強行軍であることが推測される。現代的にはグレーかブラックではないだろうか )

測量技術そのものは、たとえば大久保長安のように、富士山山頂から薬王院の真ん真ん中を通過する線を引き追分の位置を確定、しかも誤差ほぼなしという芸当を「伊能図」の200年前に行っているんです。

また、これも以前説明したように、各地で検地は行われてもいた( 八王子では1667年の総検地が知られている )。そのような既存の手法に天測を実際に取り入れたのが伊能忠敬のオリジナリティだそうです。

( 古くから検地が盛んだったのは、検地は領域拡大の戦術ともなり得るからだ。また後ですこしふれますが、大久保長安と伊能忠敬ともに、その記録から見えてくるのは、技術云々よりも、人物としての偉大さなんですね )

補足。幹線道路側はキッチリ測っても、自然ママにある山道には測量という発想からしてないような…先入観? 現代的感覚があると思うんです。

そこをひっくり返し、もしも幹線道路側はまあまあ成り行きで、山道がガッチシ測量されていたとしたら、地図上はどうなるのだろう?

というのが今回紹介した内容でもあり、とにかく一度、先入観をぬぐいさり伊能隊の測量を捉えてみようということでしょうか。

その1: 伊能忠敬の高尾山ルート( 前編 )
その2: 伊能忠敬の高尾山ルート( 中編 )
その3: 伊能忠敬の高尾山ルート( 後編 )
その4: 伊能忠敬の高尾山ルート( 地図編 )
その6: 伊能図の謎( 中間尾根編 )
その7: デジタル伊能図の高尾山
その8: 古道のパスハンター
その9: 古道の甲州道中( 実測編 )
その10: 完全版( 伊能図の高尾山 )前編
その11: 完全版( 伊能図の高尾山 )後編
その12: 伊能図の謎を歩く( 最終章 )
その13: 伊能図外伝( 文化8年5月5日/ 1811年6月25日 )

関連のある記事: Closed Season( 2018-2019 )