完全版( 伊能図の高尾山 )後編

副隊長、坂部貞兵衛率いる先発隊の足取りを追う。

坂部隊の構成、内弟子3名、竿取1名、供侍と従者の人数は不明、それと何名かの村人も随行したであろう。

この坂部貞兵衛率いる総勢数名の正規隊員が、ローカルの協力を得て、紆余曲折に複雑な高尾山の山道を見事測量したのだ。ちなみに坂部貞兵衛は難所測量のベテランとして、伊能忠敬の信頼も厚い。

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まずは無測で上椚田村まで進み、ここ、小名路の旅籠角屋から古参道にかかる。古高尾山総門から薬王院まで詰める。

( あえて遠回りな上椚田村から取り付くということは、正規ルートを進むということを意味する。たとえば七曲古道に進む場合、慣例的にも「上椚田村」とはしない )

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住宅街がつづくため画像は割愛。落合口留番所を経て坂本にかかる、そして坊ヶ谷戸に( 画像は坂本、正面に高尾山口駅 )。

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高尾山口駅前を通過、清滝から本参道にかかる。

( 七曲もスルーで、落合近道は考えづらい。清滝で取り付いたと考えるのが妥当では? もしや正規の手順をふまえ、清滝で水垢離か? )

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そして先発坂部隊は飯縄大権現社で参拝。

( あえて本参道を選択の、その目的は参拝にあると言える。これは実質、国家事業。その成就を願い、なんらかの祈祷が行なわれたかもしれない )

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参拝後、薬王院中門から測量スタート。

( 中門の位置は現在の書院の手前。ちなみに飯縄大権現社と、それに通じる本堂西の石段は江戸期ママの位置 )

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ここは「伊能図」を見る限り、現在の薬王院四天王門は通ってない、広庭の南、現在「當山一町目」の丁石が置かれている側を進んでる。

( 一町目の丁石は1811年にはすでに存在していたが、現在の位置ママかは不明。でもおそらく坂部隊はこの丁石を確認してるのでは? )

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本参道を下り、追分で男坂は百八段に。

( この石段区間、明治期の絵図には、すでに石段も描かれているが、幕末の具体的な状況は不明。 女坂は新道だが、古くから巻き道として踏まれていたとは思う、搬入用ルート? )

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八王子城跡を望みつつ城見坂にかかり、古くは浄土院前通過。いわゆる十八丁目-二十丁目区間だが、この丁目の概念も、まだ当時は存在しないかもしれない。

( ただ、すでに一町目の丁石が存在することからも、いわゆる登り三十丁としては知られていたのではないか? )

このあたり、当時、設待茶屋を除けば、薬王院の塔頭の一つとなる浄土院以外には特筆すべき建造物は存在しないと思われる。

( たとえば花見ゾネの場合、この付近が出合とも考え得るが、以前にも説明したように、それでは総体としての距離がおかしなことに )

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そして二十一丁目の坂道を下り、字旗竿は金比羅台にかかる。

昨晩の打ち合わせに従い、ローカルを先達に、伊能尾根( 仮 )にわけ入る。

いよいよ難所にかかる。初夏、ヤブはワサワサ、愉快な仲間たちはブンブン。本来、この時期には避けたいマイナールート。

( 6月末、都内西部の低山は、ちょうどオフシーズンに入るころ。この時期の高尾山系バリルートは… 現代的にも、ちょっとためらうなぁ…Hmm )

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まずは伊能尾根( 仮 )と中間尾根(仮 )との分岐まで。

( 注・この下りはおすすめできない、ほんとにあぶない。もしもトライするなら、まずは登りルートで )

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伊能尾根( 仮 )を下る。画像、真ん中は、途中に現存する宮標石( 俗称「ひようたん」)。明治期の測量史跡、もちろん当時は存在しない。

宮標石から、特に傾斜のきつい急斜面にかかる。当時、通達により、あるていど道は整えられていたとしても、梅雨の盛りであり、それなりにグサグサでは?

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やっとこさ伊能尾根( 仮 )取り付き。

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一路、甲州道中は高尾山追分を目指す( その位置は、行きに確認済。説明も受けてるはず )。

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古い橋は消滅、「梅郷橋」で小仏川を渡る。迂回する。

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甲州道中上( 一里塚付近 )、高尾山との追分( 分岐点 )、先に残されていた後発は伊能隊の印につぐ。22丁20間2尺( 約2km436m )。

この後、坂部隊は、伊能隊を追い、無側で八王子宿に入ったと思われる。

これでルートの紹介は〆だが、補足説明する。

今回、甲州道中での実測を試みたが、伊能尾根( 仮 )と花見尾根は測ってない。それは、伊能尾根( 仮 )での実測は危険をともなう。また、花見尾根では道が完全に消滅している区間が。そのような理由で断念。

( 七曲古道にも崩落箇所が、やはり危険と判断。また、いずれの古道も、特に街道からのアプローチ区間がメタメタ。宅地化によりすでに古い道が消滅、無理! プライベーターにはこの程度の検証が精一杯 )

検証の、甲州道中は荒井宿と本参道とを結ぶ間道は、たとえ伊能尾根( 仮 )でなくとも、「伊能図」に描かれている測線の中でも異質。そもそもこの間道を地図に載せる整合性は?

( たとえばこのエリアのメジャーな間道、準参道では、七曲古道と落合近道が知られている。そのいずれかなら、そこは、それなりに納得がいく。しかし測線は、明らかに、荒井宿に通じてる。その荒井宿-本参道の間道は、超マイナーなエスケープルート。それは花見尾根も同様 )

それで以前も説明したように、この間道はおまけ。本来、金比羅台-坊ヶ谷戸-小名路と、古本参道まるまるを測量したかったのでは? という謎が。

しかしその場合、では、もしかすると後年( 再訪 )、測線を継ぐ可能性のある、たとえば金比羅台分岐、そして小名路追分( 角屋の古高尾山総門 )などポイントともなる場所の記載がなぜにない?

…と、妄想するのだが、そもそも「測量日記」は伊能忠敬によるもの。その当人は入山してない、故、伊能メモにその区間の記録は残されてない。そこで坂部貞兵衛本人のメモがキーになる。

坂部貞兵衛もこのエリアに関する記録をつけてたはずで、これは新たな坂部メモが発見されればその謎は解けるであろう( その可能性はあるだろう )。

とにかくその点は新たなエビデンスの登場を望む! …と、つまりまあ、長々と講釈たれたが、高尾山における伊能隊の謎は解明されてない。

古高尾山総門を通過する幕末の高尾山参道は、以前紹介したのでそれを参照。

伊能忠敬が残した印の位置、その距離の誤差に関しては前編を参照。

参照、「伊能忠敬測量日記」佐久間達夫校訂版。さらに読み下しています、もしかすると誤りがあるかもしれません。

最後に。こんだけ講釈たれて、結局不明って、えぇー! と思われるかもしれないが、不明だからこそ、そこに歴史のロマンがあるんじゃん!

総じて言えるのは、わかるようで? わかんないところ? その謎に惹かれる。informationよりも、intelligenceが問われるのが面白い。

その1: 伊能忠敬の高尾山ルート( 前編 )
その2: 伊能忠敬の高尾山ルート( 中編 )
その3: 伊能忠敬の高尾山ルート( 後編 )
その4: 伊能忠敬の高尾山ルート( 地図編 )
その5: 大久保長安と「伊能図」の誤差
その6: 伊能図の謎( 中間尾根編 )
その7: デジタル伊能図の高尾山
その8: 古道のパスハンター
その9: 古道の甲州道中( 実測編 )
その10: 完全版( 伊能図の高尾山 )前編
その12: 伊能図の謎を歩く( 最終章 )
その13: 伊能図外伝( 文化8年5月5日/ 1811年6月25日 )

関連のある記事: Closed Season( 2018-2019 )